MA-YU 学園編 第四話 (「在りし日の」よりつづく)
「かぶらぎ、せんせい」
1
「シャワー、ありがとうございました」
濡れた髪をタオルで包みながら、まゆは礼をいった。
いい匂いのするやわらかなタオルだ。
服は借りものだ。大きめのワイシャツ。ズボン類はどれも裾が長すぎて断念した。
その部屋は、駅からほど近い住宅街の一角に建つマンションの最上階にあった。
アルコーブのある玄関に大理石の床――一人暮らしには広すぎる、生活感の薄い部屋、だった。
借りたバスルームも普段はシャワーしか使っていないようで、バスタブは新品同然。そのほかの場所もほとんど使われていないようだった。
生活の場らしく見えるのはリビングだけだったが、その二〇畳ほどのスペースにある家具といえばソファとテーブルだけ。テーブルにノートPCが置かれているだけで、テレビさえない。
「コーヒーを入れましたよ、飲むといい」
キッチンからカップを手に現れたのは鏑木だ。
黒のタートルネックにジーンズ。白衣を着ていない姿が新鮮にうつる。
外の雨音が激しくなっている。
電話ボックスから鏑木の携帯に電話を入れ、この場所を教わった。
行くか行くまいか迷っているうちに雨が降り出した。
雨宿りする考えも浮かばないうちにずぶ濡れになっていたところに、鏑木が迎えにきたのだ。
「座っててください……ちらかってますが」
鏑木はまゆをソファに導いた。仕事の途中だったのか、ソファとテーブルの周囲には資料類がまきちらされていて、モニターもついたまま。飲みさしのペットボトルがいくつか。脱ぎ捨てられたシャツ類。それらを鏑木は気恥ずかしそうに片付けた。
「電話をもらってあわてて出たものだから、掃除をするヒマもなくてね」
まゆはコーヒーカップを手にソファに腰を下ろす。
鏑木の匂いがした。不快ではない匂い。
たぶん、鏑木はこのソファで寝起きし、すぐそばのテーブルで仕事をしているのだ。その空間だけが鏑木の生活空間なのだ。
奥のドア――たぶん寝室だろう――も、ほとんど使っていないのではないか。
「今日は――実験に来ませんでしたね」
少し間をあけて鏑木も座り、まゆに話しかける。
「ごめんなさい」
まゆはこうべを垂れる。
そうだ。今日はアルバイトの日だった。
鏑木実験室の――
その内容を思い出すとまゆの鼓動が早まり、顔が熱くなる。
「いいんですよ。休講にしましたから。適度に休講も挟まないと学生のウケが悪くなりますからね」
冗談のつもりか鏑木が小さく笑う。
「実際は、次の学会の準備がピークでしてね、二日ほど徹夜しているありさまで、休講になってありがたいくらいです」
「そうだったんですか……ごめんなさい」
まゆは小さくなる。
「気にしないでください。それよりも、こうして連絡をくれたということは、続けてくれるんですね、アルバイト」
まゆは鏑木の右手を見た。かさぶたが残っている。一週間前の出来事がよみがえる。
先週、盛り場で不良にからまれているときに鏑木に救ってもらった。
その際に負った傷だ。
――なんだか、わたし、人の邪魔ばかりしている
まゆは激しくおちこむ。
良明はいっそう忙しくなってしまって、平日は連日連夜、深夜まで帰ってこない。社長に同行して取り引き先の接待に明け暮れているらしい。休日さえ、社長の子供を連れて遊びに行ったりしている。まゆのことも誘ってはくれるのだが、もちろん一緒になど行けない。
社長が女性で、すごい美人であることも――一度だけ、タクシーで良明を送り届けてくれたときに顔を合わせて――知っている。
そのとき、女社長がまゆを見て、驚いたような、そして責めるような目を良明に向けたことが印象に残っている。それは、良明とまゆの関係を知っているかのような――そして、予想よりまゆが幼かったことに道義的な怒りを感じたかのような――反応だった。
それでも別れ際に女社長はまゆに言った。
「沢くん、いつも大変そうだから、家ではくつろがせてあげてね」
他意はなかったのだろうが、まゆにはその言葉がとても意味のあるものに感じた。
良明にとって、まゆが負担になっている――仕事でも、私生活でも――
そして良明はといえば、女社長のことは決して話題にしようとしなかった。かわりに、その息子のことをよく話した。社長の人となりについてまゆが水を向けると、それきり話を打ち切りさえした。不機嫌になって――まゆのことを見ようとさえ、しない。
そんな日々が続いたある日、まゆは神村のもとを訪ねた。「あの時」以来、もう二度と過ちはおかさない――という誓いを破って。
神村弁護士事務所は別の弁護士の事務所になっていた。以前、神村の部下の一人だった弁護士だ。
そこでまゆは衝撃的な事実を知った。
神村は交通事故で重傷を負い、意識不明の重体となっていた。ひき逃げだった。犯人は捕まっておらず、神村自身、いまだ昏睡状態だという。
今日、鏑木の実験をすっぽかしたのは、その病院に行ったためだ。だが、面会する勇気はなく――また、面会を申し込んだとしても家族以外は拒まれただろう――すごすごと帰ってきた。
その道すがら神村との思い出がフラッシュバックしてきて、苦しくて電話ボックスに飛び込んだ――
つづく
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